2003年に起きたことで、ラグビーワールドカップ日本招致を語る時にどうしても欠かせない人物がいる。
2003年のオーストラリアW杯も終わり、招致調査団も帰国した11月30日の早朝、「イラクで日本人が凶弾にあって死亡した」というニュースが流れた。数時間後、亡くなった2名の日本人のひとりが奥克彦氏(早稲田大学ラグビー部OB・外務省参事官)だったことが報じられた。
奥氏と特に親交が深かったイギリス人にレジ・クラーク氏がいる。オックスフォード大学を卒業後、1980年に神戸製鋼でもプレー。クラーク氏と奥氏が同年齢であり、ともにオックスフォード大学出身ということから、その後、クラーク氏が英国に戻ってから二人は気の合うラグビー仲間となった。(写真=クラーク氏提供)
現在は、スポーツ用具メーカ―、ライノー(RHINO)の社長を務めているクラーク氏によると「奥氏は、日本でワールドカップを開催すべきだといつも言ってました。2001年に彼が在英日本大使館に勤務し始めた頃からよくロンドンで会いましたが、その頃から彼は自分の外務省のネットワークを使って、英国のラグビー人脈に、ワールドカップの日本招致のロビイング活動をやっていたのです」。
英国の日本大使館に勤務していた奥氏がなぜイラクに行ったのか?森喜朗元首相によると「奥氏があるときバクダッドに行ったが、日本大使館には外交官が一人もいなかった。旗は立っているけど日本から誰も行っていない。イラクで苦しんでいる子どもたちを見て、誰も行かないのなら自分が行くべきだと考えた」。(森喜朗著『遺書』より)
奥氏がイラクで凶弾に倒れてから2年後の2005年、クラーク氏が発起人となり、ロンドン・ジャパニーズやオックスフォード・ケンブリッジの卒業生を中心に故人をしのぶ「奥記念杯」が始められ今日まで毎年続いている。
今年の「奥記念杯」は、トゥッケナムでイングランド対日本戦が行われる11月17日の午前中に、リッチモンドクラブで行われるということだ。ワールドカップの日本招致を夢見て、英国でロビイング活動を展開していた奥氏がイラクで凶弾で倒れてから、実に15年の歳月がたとうとしている。