9月2日、自分はDANA REGINA(ダナ・レジーナ)号の船上にいる。全長150メートルばかり、1000人ほどの乗客を乗せてデンマークとイギリスを結ぶナイトフェリー。この船に足を一歩踏み入れたとたん、そこはもうイギリスだった。みんなが英語をしゃべっている。コペンハーゲンでは何が何だかわからなかったが、まわりの人たちが何を話しているのかなんとかわかる。ほっとした。安心したのか、この日はすぐに眠りについた。
翌日の朝10時、19時間の航海、あと4時間でハリッジだ。イギリスだ。
ハリッジに着いたらさっそく入国審査がある。この日のために備えた作戦をさっそく実施する。まず、今来ているTシャツとGパン姿は、アルバイトをしそうな貧しい若者に見られがちだ。そこで、日本から持参したこぎれいなシャツとズボンに着替え、髪をきちんととかして、普通の日本人の観光客を装う。この直前の変身ぶりには自分でもおかしくて笑いそうになった。航空券も1年オープンのロンドンからの帰りの切符をすぐに見せられるようにしてある。もしも今後何かの予定が変わったら、帰りの切符は捨てるしかない。そのためにここまで格安のチケットで来たわけだから。トラベラーズチェックも20万円分用意した。これで何か聞かれても大丈夫なはずだ。
パスポートを入国管理官に渡す。イギリス渡航への目的を聞かれたので、落ち着いて、「観光」と答える。案の定、帰りのチケットと所持金をチェックされた。一瞬こちらの顔を見た管理官は、パスポートの新しいページを開くと、ぽんとスタンプを押して返してくれた。滞在許可は出たようだが、1か月なのか、もう少し長いのか・・。
恐る恐るスタンプのページを確認してみると「6か月の滞在を許可する」と書かれてあった。やった!こうして、デンマーク経由の私のイギリス入国作戦は見事に成功した。
イギリスの東海岸にあるハリッジから2時間ほど鉄道に乗ってロンドンのリバプール駅に向かう。今日宿泊の予定は、アブコン(Abcon)ホテルという格安の若者向きのホステルだ。朝食付きで一泊2ポンド(1,000円)。
夢にまで見たロンドン。しかし着いて驚いたのは、最初に想像していたイギリスのイメージと違ったことだ。駅員も、運転手も黒人かパキスタン系と思える人たち。本当のEnglish peopleはいるんだろうかと思えるほど、多国籍の国だ。
ほっとしたのは、物価の安さだ。1ポンド500円したが、いろいろなものが手軽に買える。17ペンス(85円)でポットで飲める紅茶はおいしくて最高。たっぷりミルクを入れて5杯飲んでもまだ余りあるほどだ。ビールが24ペンス(120円)、サラダ(トマト・きゅうり・エッグ・レタスなど)が74ペンス(370円)、それもレストランでの話。コペンハーゲンでは高くてレストランに入れなかっただけに、安心だ。これなら、イギリスではなんとかやっていけそうだ。
いま宿泊しているアブコン・ホテルは5人一部屋の相部屋だ。今日、新しく入ってきたのは、スペインの青年で社会主義者。お互い、カタコトの英語でお互いの国の政治状況を話した。彼は日本の赤軍半を支持するというから驚いた。フランスから来たという青年は、”I can speak small English”と言って話しかけてきた。Small English…文法的にはただしくないだろうが、言おうとしていることはわかる。彼の英語を聞いて、自分も英語に自信が出てきた感じがする。
この安ホテルで生活するだけでいろいろな国の人たちと交流できる。わざわざヨーロッパまで来た意味はこんなところにあるのだ。イラン、トルコ、インド、イスラエル・・・と、初日だけで、もう12か国の人たちと話をした。みんなお金を持っていないことに関しては共通で、スペインの青年は大きなパンを買い込んで、それを2日も3日もかじって生活している。
このホテルにはシャワーがあることにはあるが、お湯にならない。まあ夏だから水でも大丈夫なんだが。シャワーを浴びる時には、首から手製のパスポートケースを吊るし、水をかぶる一瞬だけケースを外して入るようにしている。「パスポートを一瞬でも肌身から離さない」というのが旅の鉄則だ。
初日の午後11時くらいのことだ。ホテルのリビングにいたら、バッグパックを背負ったカナダ人らしき若い女性がドアを開けて入って来た。なんとか今日泊めてくれないかと言っているようだったが、フロントからは「今日は満室なのでムリ」という返事。するとその女性は「廊下でいいので」と交渉を続け、結果、なんと寝袋を引っ張り出して、フロントの前の廊下で横になり始めた。格安旅行をするためにはこのくらいの覚悟が必要だと思った。
ロンドン2日目は、アンダーグラウンド(地下鉄)のビクトリア駅からスタートして、バッキンガム宮殿、国会議事堂、ウエストミンスター寺院、チャーリングクロス、トラファルガー・スクウェア、ピカデリー・サーカス、グリーン・パーク、ハイド・パーク、ケンジントン・ガーデンと名所を延々と歩いた。あとで地図で確認すると15キロほど歩いたことになる。バス代がもったいないこともあるが、ロンドンはどこでも歩く気になれば歩ける距離だ。
それにしてもどこに行っても人、人、人・・・。一体どこの国の人たちかわからないが、判別しただけでも、フランス、スペイン、アメリカ・・。自分がどの国に来ているのかさえわからなくなりそうだ。コペンハーゲンがあまりにもきれいだったので、ロンドンはややうす汚れて見える。
がっかりしたのは、ロンドンに来て一日中歩き回ってもラグビーボールが一回も見れなかったこと。
せっかくなので、翌日はロンドンのビクトリア駅から鉄道に乗り、イングランドラグビー協会のあるトウィッケナムに足を運んで見た。そこのポスターで知ったのだが、なんとこの週末にトウィッケナムでブリティッシュ・アイリッシュ・ライオンズ(全英代表)とバーバリアンズの試合があるという。通常、ライオンズは海外遠征でしか結成されないドリームチームと聞いていたが、この1977年という年はちょうど、エリザベス女王の即位25周年(ジュビリーーイヤーという)で、その記念試合として特別に行われるという。バーバリアンズといえば、これまたイギリスやフランスのスター選手を集めたドリームチーム。協会の窓口で、一番安い2ポンド(1,000円)の席が入手できた。一体どういう試合が見れるのか、急にワクワクしてきた。
翌日、私は再びトウィッケナムに向かった。実は、イギリス渡航を計画した時に、現地の協会に出向いて何かラグビーの指導の手掛かりをつかもうと、九州ラグビー協会の会長に紹介状を書いてもらうおうと依頼した。私は当時、福岡で草ヶ江ラグビースクールの指導をしていた。しかし、九州協会からはいつまでたっても返事はもらえず、出発の日が来てしまった。考えてみれば、なんの実績もないただの25歳の若造がイギリスの協会へ行くからと言って、推薦状を書けるはずもないかもしれない。が、イングランド協会で、日本で子どもたちの指導をしていることを伝えると、翌日、担当者が会ってくれるという運びになった。
翌日イングランド協会を訪問して私に面会してくれたのは、なんと有名なコーチング・ディレクター、ドン・ラザフォード氏だった。椅子に座って自己紹介をしたら、ラザフォード氏が私の胸元をちらちら見ていることに気が付いた。私は渡航する際に、パスポートを入れたケースを紐に結び、常に首にかけてシャツの下に入れていた。当時のパスポートは葉書程度の大きさだったので、その長方形の形がでっぱって上からも形が見えてしまうのだ。
不審そうな顔をしたラザフォード氏は、「それで何か紹介状のようなものはあるんですか?」と私に聞いたが、ないことを伝えると「ああそうなんですね」と言って、ミニラグビーのブックレットを渡してくれた。「今、イングランドではこういうラグビーを子どもたちに導入しています」。ラザフォード氏こそは、その後、世界で主流になった少人数でのミニラグビーを考案したその人だった。しかし、紹介状がなかったせいか、ラザフォード氏との面談は短時間、たぶん10分ぐらいだったか、で終わってしまった。私は帰国してから数年後、ラザフォード氏の著作『勝つためのラグビー』を翻訳することになるのだが、この時は、そういうその後の展開は予想もしていなかった。
ロンドンに戻って中央郵便局に行って、日本からの手紙が届いていないかと思ったが一通も来ていなくてがっかりしてしまった。イギリス国内を移動するので、日本から届く手紙はとりあえず中央郵便局あてに届くことになっていたのだ。当時は書簡を使うしか日本とのやり取りはできなかった。昨夜は日本にいるみんなのことを思い出して、ちょっと感傷的になっていた。しかし、Don’t mind 俺はいまEnglandにいるんだ。Now, do your best! Now, enjoy yourself!
次回は、ロンドンでの初めてのラグビー体験をお伝えします(3月8日更新予定)