• 徳増浩司のブログ (Blog by Koji Tokumasu)

<招致の記録③>Brave Blossomsの誕生

2003年にオーストラリアで開催されたラグビーワールドカップは、日本協会がワールドカップの日本招致を計画した始めた年の秋に行われ、招致の原点になる大会だった。向井ジャパン(箕内拓郎主将=写真)の初戦となったスコットランド戦は、私自身が実際に自分の目で見た代表戦でも特に印象に残った試合だった。
徹底した戦略。前半は、辻と廣瀬のハーフ団で、ディフェンシブにゲームを進め、点差を最小限に抑えておいて、後半に園田・ミラーの神戸製鋼ハーフ団を投入して一気に攻撃をしかける。まだ外国人選手の出場が限られた中で、日本人選手の特長をよく活かした作戦だった。
当時、日本代表のテクニカルを担当していた秋廣秀一さんによると、前半は「ビルディング・ビーバー」、後半は「アタッキング・イーグルズ」という言葉を使ってイメージを固めたとのこと。前半は作戦通り6-15で折り返し、後半は一時4点差まで追い上げたが、11-32で敗れた。

試合には負けたが、タウンズビルのスタジアムには大きな興奮があった。帰りのバスの中で私はなんとなく、明日の新聞の見出しはもしかしたら“Brave Blossoms”(勇敢な桜戦士たち)みたいになるんじゃないかなと考えていたら、翌朝、本当にそうなっていて驚いた。これは単なる偶然の一致だったのだろうか。

あとで知ったが、当時「ジャパンタイムズ」の記者として現地で取材をしていたリッチ・フリーマン氏が記者室で思わず「これはBrave Blossomsだ!」という声を挙げ、この日以来、世界のメディアがこの表現を使い始めたということだった。いかにみんなを感動させた試合であったかが伝わってくる。

私は試合の余韻も冷めぬまま帰国した。いろいろな国の協会からスコットランド戦に対しての賞賛のメールが日本協会にも届いていて驚いた。

ジャパンの2戦を見届けたかったが、翌日は福岡のグローバルアリーナへ向かわなければならなかった。今では考えられないことだが、なんとワールドカップ開催中の10月19日に、アジアラグビーの主催で「日本(選抜)対香港」のテストマッチを福岡でやることになっていたのだ。それがどういう事情だったのかは、今では思い出すことができない。

グローバルアリーナのスタンドに立っていると、第2グラウンドで、全国高校大会の県予選・準決勝をやっていた。そして、こちらの方がたくさんのお客さんが入っていた。小倉対九産大付属の試合で、小倉のスタンドオフがすごいステップで相手を抜いてトライをしていたので、「あれは何という選手ですか?」と名前を尋ねたところ「山田」という名前だった。12年後に、イングランドのワールドカップでトライをしたあの山田章仁選手の高校時代の姿だった。

話をワールドカップに戻すと、日本代表は、スコットランド戦のあと、フランス、フィジー、アメリカと戦い、勝利には手が届かなかったが、どの試合も善戦で健闘した大会となった。日本協会がラグビーワールドカップの招致に名乗りを挙げようとしていた2003年、日本代表がオーストラリアで果敢に戦ったという事実は、私達が決して忘れてはならないことだ。

ちなみに、この時に日本代表選手として出場した廣瀬佳司氏(トヨタ自動車)、向井ジャパンを支えた主務の小原政昭氏(東芝)はともに現在、RWC2019組織委員会に出向して、ワールドカップの準備活動にあたっている。当時の日本代表やワールドカップを体験した貴重な存在だ。

ここに一枚の写真がある。15年前にタウンズビルで撮影した写真だが、右下の日付を見ると2003年の10月12日とある。その日の夜にスコットランド戦がある日のティータイムだったのか、副会長の日比野さん、専務理事の真下さんらとともに、強化委員長の宿澤さんや、強化担当の上田昭夫さん、理事の笹田さんらの顔が見える。

宿澤さんと上田さんは惜しくも故人になられてしまった。彼らへの思いを込めて今この原稿を書いている。彼らと一緒に、日本が大健闘したタウンズビルの思い出話をしながら、来年のラグビーワールドカップ2019を迎えたかった。このお二人の日本ラグビー界への貢献については、とてもここでは書きつくせない。またいつか別な機会をいただきたい。

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