• 徳増浩司のブログ (Blog by Koji Tokumasu)

『ウェールズへの道』06 カーディフ到着

誰にとっても、自分の人生を変えてしまう日と呼べる日が何度かあるはずだが、1977年9月13日は、私にとってそういう日だった。

ロンドンISH(インターナショナル・スチューデント・ハウス)からパディントン駅へ向かう。イングランドからウェールズ方面へ向かうためには、もっぱらこの駅からの電車を利用する。12時15分発のインターシティー125号。大きなテーブルを真ん中にして椅子が両側にあるゆったりとした車内はガラガラだった。

カーディフに着いてどこに泊まるかはまだ決めていなかった。私はロンドンの観光協会で入手した「Where to Stay in Wales」という緑色のガイドブックに目を走らせた。そこで目に留まったのが、カーディフ大学の寮だった。学生がいない夏休みに寮の一部を提供しているらしい。朝夕の食事つきで3.35ポンド(1,675円)。しかもシングルルームだ。他のホテルはどれも最低でも朝食付きで6ポンド(3,000円)はした。これはどう考えても破格の値段だ。私はカーディフに着いたらさっそくこの大学に電話しようと決めた。

カーディフ着、14時。駅前にウェールズ最大のラグビースタジアム、カーディフ・アームズパークがそびえるように建っている。私はまっさきに駅の公衆電話からカーディフ大学の寮に電話した。「日本から来ているんですが、今日一泊だけでも泊めていただけませんか?」

「予約はしてきたんですか?」と言う電話口の女性スタッフ。予約していないことを伝えると「ここは予約してきた方だけなんです」と言われ、電話を切られた。

私は気分を変えるために、アームズパークの周辺を少し歩いてみることにした。これがあの伝説のスタジアムなのかと思いをめぐらす。ディーンズ選手の「あれはトライだった」という伝説もこのスタジアムから生まれたという。1905年に初めて英国遠征したニュージーランドのオールブラックスが、最終戦でウェールズと対戦。終了間際にオールブラックスのセンター、ボブ・ディーンズがタックルを受けながらトライしたかに見えたが、レフリーの判定はトライを認めず、この試合は3-0でウェールズの勝利となった。ディーンズ選手はその後、第一次世界大戦で欧州戦線に参加したが、銃で撃たれて野戦病院で息を引き取る直前に言った言葉が「あれはトライだった」。ラグビーではレフリーの判定に絶対服従という事の大切さを伝える伝説となっている。

カーディフに着いてもう1時間経っていただろうか。そろそろ今日の宿を決めなければならない。私はもう一度「Where to Stay in Wales」を開く。やっぱりカーディフ大学の寮が抜群に安いな。と思うと矢も楯もたまらず、またも電話してしまった。が運悪く、同じ担当者が電話に出てしまい、またも断られてしまった。

しばらくカーディフの街を歩いた。小さなアーケードがいくつもあり、その先にはカーディフ城がある素敵な街だ。また1時間くらいも歩きまわっただろうか。私はまたもさっきのカーディフ大学の寮に電話することにした。もしかしたら違う担当者が出て意外にOKになるかもしれない。いやそんな計算よりも、とにかく今日は1ポンドでも安いところに泊まりたいという気持ちだけに突き動かされた。

「また、あなたですか・・・」と、電話口に出た同じ女性スタッフ。「えー、しょうがないですねー。もうあなたには負けましたよ。じゃあ、駅前から52番のバスに乗ってきてください。今晩一泊だけですよ」。私は跳び上がりそうになった。駅のバスターミナルまで行き52番の黄色いバスに乗り込んだ。

バスは高台へと登っていき、カーディフ大学のユニバーシティホールへ着いた。と、隣に中学校があり、なんと子どもたちがラグビーをやっている。ずっと見たかったウェールズのラグビーが今この目の前にある。チェックインしてリュックを置くと、私は走って隣の中学校に向かった。ウェールズのラグビーが見れる!

中学生たちが2チームに分かれてアタック・ディフェンスの練習をやっていた。私は無我夢中で練習光景をカメラで撮り始めた。やがて練習が終わり、コーチの先生がこちらにやってきた。そりゃあ確かに不審にも思うだろう、いきなりグラウンドに現れた見ず知れずの東洋人が撮影を始めたわけだから。遅まきながら、たどたどしい英語で自己紹介をする。私は「2年前に来日したウェールズ代表のラグビーに憧れて、ラグビーを学びたくて日本からやってきました」と伝えた。

先生の名前は、レズリー・ゴーントレットさん。この学校はレディーメアリー・ハイスクールというところだった。レズリーさんは「それならラグビーを勉強するのに一番いい学校を教えてあげるよ。車に乗ってごらん」ということになった。車でわずか5分のところにカーディフ教育大学があった。

カーディフ教育大学

カーディフ大学とも違うカーディフ教育大学。そこがどういう大学なのか、よくわからなかったのだが、ラグビー部のコーチであるレイトン・デイビス氏に学校を案内していただいて驚いた。なんと、掲示板に、あのガレス・エドワーズの学生時代の写真が貼ってあった。それどころか、アラン・マーチン、JJウイリアムズなど、2年前に来日したウェールズ代表のメンバーもみんなこの学校の卒業生だった。ここは、教員養成大学、しかも体育教師の養成に特化した大学で、大学チームとしてもラグビーでウェールズNO1の大学だったのだ。

カーディフ教育大学にの掲示板に貼られていたガレス・エドワーズの写真。
1年生の時にウェールズ代表に選ばれて学長に励まされている時のものだった。

1977年9月13日、この日に起きたこと。ひとつの偶然がまた次の偶然を生む。私が、もし三度も電話をしてカーディフ大学の寮に来るという偶然がなければ、レディーメアリーハイスクールのレズリーさんに出会うことはなかった。そしてもしレズリーさんに出会わなければ、カーディフ教育大学でラグビーを勉強するという可能性もなかった。私は、自分を包む不思議な運命に導かれるようにしてウェールズ、カーディフでの最初の日を過ごした。

夜、大学寮での夕食があまりにも豪華なので思わず涙が出そうになった。ローストビーフにマッシュポテトとグリーンビーンズ。グレイビーソースというものを初めてかけて食べた。アイスクリームやフルーツのデザートまで。日本を離れて19日目。そういえば、最近ろくなものも食べてなかったな。寮のある高台からカーディフの街に沈む夕陽が見えた。私はこれまであれほどきれいな夕陽を見たことがなかった。