• 徳増浩司のブログ (Blog by Koji Tokumasu)

『ウェールズへの道』07 レイ・ウイリアムズに会う

1977年9月14日。ウェールズで初めての朝をカーディフ大学の寮で迎える。当初は一泊だけの宿泊許可だったが、フロントへ行って一応お願いしてみたら、今月の29日まで2週間の滞在がOKとなる。これで宿の問題はひとまず安心だ。あの3回の電話がかろうじての1泊につながり、それがさらに2週間の滞在へとつながった。

私はバスに乗ってカーディフの市街に出て、アームズパークの敷地内にあるウェールズラグビー協会へ向った。滞在期間が限られているので、有効に時間をすごすためにもまずはラグビー協会に挨拶に行こうと思っていた。日本を離れて3週間。少しずつ英語がスムーズに出てくるようになっていた。ウェールズラグビー協会のドアを開け、受付の女性に、自分が日本のラグビースクールで子どもたちにラグビーを教えていることや、ウェールズのラグビーを知りたいというようなことを伝えた。

するとロビーに現れたのは、なんとウェールズ協会の初代コーチング・オーガナイザー、レイ・ウイリアムズ氏だった。先日、ロンドンのイングランド協会で会ったドン・ラザフォード氏ともに、英国のラグビーコーチング界のトップの中のトップである。福岡から来たわけのわかららない25歳の日本人が、なんの紹介状もなしに、いきなり英国のコーチング界の巨頭2名に直接会ってしまう。当初、想像もしていない展開だった。

ウェールズラグビー協会の初代コーチング・オーガナイザー、レイ・ウイリアムズ(写真は「Wales Online」より)。私のウェールズ渡航を大きく変えるきっかけになった人のひとりだ。

キラっとした眼光の鋭いウイリアムズ氏は椅子に腰を下ろすと、まずは私の自己紹介を待った。私が、福岡の草ヶ江ヤングラガーズというラグビースクールで小学生の子どもたちにラグビーを教えていることや、来日したウェールズ代表を見て感動した話、ウェールズのラグビーを学びたいということを伝えると、おだやかな笑みを浮かべた。

「それでどのくらいウェールズに滞在するのかな?」と聞くウイリアムズ氏に、私は「たぶん2週間ぐらいだと思います」と答えた。カーディフ大学の寮での宿泊許可が2週間出たので、その間であればなんとかカーディフに滞在できるだろうという予測だった。それにその時点では、それ以上長く滞在できる理由もすぐに見つからなかった。

イングランド協会では、ドン・ラザフォード氏とのわずか10分ほどの対面に終わったが、レイ・ウイリアムズ氏は、わざわざ私のために1週間にわたるラグビー視察プログラムを作ってくれた。これが、イングランドとウェールズとの違いと簡単に言ってはならないかもしれないが、この対応の差は私にとってはあまりにも大きなものだった。レイ・ウイリアムズ氏との出会いは、前日のレズリーさんとの出会いとともに、私のその後のウェールズ生活を決定づけるほど大きなものだった。

ウェールズラグビーの視察プログラムは、いきなりその日から始まった。その日の夕方、U15(中学生)のカーディフ代表が隣町のニューポートに遠征して、U15ニューポート代表と試合をするのでそれをバスに乗って見に行くというものだった。

16時の出発まで時間があったので、少し街を歩くことにした。カーディフの美しさにあらためて心がゆるぐ。どこか北欧的な美しさというのか、ごみごみしたロンドンとは違う小ぎれいさがある。それに日中のあの太陽のまぶしさは、空気がきれいなせいなんだろうか。私は出発前、福岡に4年住んできたが、同じくらいのスケール感が自分に一番ぴったりしていた。カーディフはそういう自分の感覚にぴったりの街だと思った。

その後、迷ったあげく、1着のスーツを買うことにした。元々はバックパッカーのスタイルで渡航を始めたが、視察プログラムが始まるのに、いつまでもTシャツとGパンでは先方に失礼だ。日本でいえば、ダイエーのようなスーパー「Marks and Spencer」で35ポンド(17,500円)を奮発する。この渡航中の出費としては巨額な価格だ。ただ、ズボンが長すぎて、短くするのにひと苦労。紹介してもらったランドリーにいっても店主がいなくて、明日また来ることになった。腹がへってやっとたどりついたフィッシュ&チップスのうまいことったらなかった。わずか29ペンス(145円)で最高。古新聞に包まれて出てくるホッカホカのチップスには涙さえ出てきた。以来、ウェールズ生活では外食といえばフィッシュ&チップスが定番となった。

16時の待ち合わせで、ウイリアムズ氏の紹介してくれたゲリー・ドノバン氏に会う。ハイスクール(12-18歳)の先生だ。カーディフ駅前をバスで出発したのが17時。途中で4組のグループを各地でピックアップしていく。14歳の彼らは日本でいえば中2~中3だが、体格は大きくて高校生と思えた。黒いジャケットとタイはイギリス的だ。ニューポートに着いたらほとんど練習もなく、すぐに35分ハーフの試合が始まった。

体格は日本の高校生レベルだがゲーム内容はかなり粗削りでおおざっぱ。バックスにもキレがない。ただし、カウンターアタックがすぐれていて、ボールが継続する。ホイッスルの回数が少ない。それに「当たる」姿勢がしっかり完成している、きれいなモールができる。トライよりもいいタックルやモールに拍手が起きる。観客もラグビーがよくわかっているということだ。

スタンドからは “Wake up, New Port!” “Come on, Cardiff!”などの掛け声。英語で「がんばれー!」という時にはこういう言い方をするんだと思った。中学生たちは試合が終わったらすぐにシャワーを浴びで帰路へついた。試合の前後にまったく無駄な時間がない。それにしても、平日(水曜)に、授業が終わってから中学生の地区代表チーム同士が試合をできるこの環境とは何だろう。私は視察プログラムの第一弾から度肝を抜かれた。

バスはカーディフに戻り、ドノバン氏と私はアームズパークへ向かい、カーディフクラブを案内してもらい、以前何かで読んだアームズパークの「ラグビー博物館」を見る。クラブの中ではみなさん背広にネクタイの紳士ばかりで、ビールを片手におしゃべりに熱中している。こちらの格好(Gパンに運動靴)はどうも場所違いだ。こういう場所ではやはりスタイルが大切だ。ここはそれなりの人ではないと入れないところらだと緊張した。

午後7時15分のキックオフで、ナイターで行われるカーディフ対ブリストルの試合を観戦することになった。カーディフといえば、あのガレス・エドワーズなどウェールズ代表も続する名門クラブだが、この日は出場していなかった。それにしても15,000人収容のスタンドの沸くこと。ここでも、トライよりもいいタックルやモールに拍手が起きる。水曜日の夕方に中学生の代表チームの試合があり、そのあとナイターで地元クラブの試合が見れるという環境。ウェールズでは日常生活の中にラグビーがとっぷりと根を下ろしてるという気がした。

翌日は、再びレディーメアリー・ハイスクールに行ってラグビーの練習を見学することにした。こちらのハイスクールは日本で言う中1~高3という年齢構成だ。今日はレズリーさんが、この前約束をしてくれ、練習後にカーディフ教育大学の学シド・アラン学長に会わせてくれるということになっていた。

白髪で眼鏡をかけたアラン学長はとてもやさしそうな面立ちの人だった。かつては器械体操の選手として活躍した方ということだった。レズリーさんは「この若者はわざわざ日本からウェールズのラグビーを勉強しに来たらしいんです」と私を紹介してくれた。「そうですか」と笑みをたたえたアラン学長は「なにかいい方法はないものですかね?」としばらく考えていた。と、突然こう言った。「実は私は以前から日本の体操と、その指導カリキュラムに強い関心を持っています。あなたが、もし日本の体操の資料を取り寄せて私たちのために英訳してくれるなら、代わりにと言っては何ですが、私たちの大学の授業を少しばかり聴講してもらってもいいですよ」。私は今聞いた言葉が、本当のことなのか、どういうことになるのかまだわからなかった。カーディフの寮への2週間の滞在、レイ・ウイリアムズのラグビー視察プログラム、そして今度はカーディフ教育大学での授業の聴講・・・まだ2日前にカーディフに着いたばかりだ。このウェールズという地で、いま自分には一体何が起ころうとしているのだろうか。(次回掲載は3月29日(月)の予定です)

レディーメアリー・ハイスクールで子どもたちを指導するレズリー・ゴーントレットさん。この人も私の人生を変えるきっかけになった人だった。

(筆者追記)レイ・ウイリアムズ氏は2014年12月に逝去されました。87歳でした。”Wales Online”よりhttps://www.walesonline.co.uk/sport/sport-opinion/ray-williams-obituary-8223136