• 徳増浩司のブログ (Blog by Koji Tokumasu)

『ウェールズへの道』01日本出発

 もう40年以上も前のことで、記憶があいまいな部分もありますが、渡航時につけていた『旅日記』や、現地から日本に送った手紙などを参考に、再構成してみました。この機会にもう一度ウェールズを訪問することにより、この渡航で学んだことを再発見したいと思っています。

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1977年8月26日、私は25歳の時に生まれて初めて国際線に乗った。羽田発のパキスタン航空だった。当時、海外渡航をめざす若者たちの間で読まれていた「Young Abroad Club」というミニコミ誌で情報収集した結果、日本からヨーロッパ入りするにはこれが一番安いフライトだったからだ。一番安いといっても、南まわりで18万円もした。その頃、お金を持たない若者たちが海外渡航をするということは、決死の覚悟でもあった。

 その頃、小学生の間で使われていたナゾナゾに、こんなものがあった。「バスの運転手はいつもいくらお金を持っているでしょう?」。この答えがすぐわかれば、あなたはかなりの情報通ということになる。正解は180円。その心は・・・バスの運転手はいつもハンドル(半ドル)を持っている。当時、1ドルは360円だったので、半ドル=180円を持っているということになる。

 今は懐かしい固定相場制。その後、米ドルは変動相場制へと移行したが、1977年当時、英国1ポンドは500円もした。海外渡航を夢見る若者たちの間では、片道切符で入国し、現地でアルバイトをして帰りのチケットを買う強者たちもいた。それが若者たちの武勇伝でもあった時代だ。そんな情報が「Young Abroad Club」にもたくさん載っていた。おりしもイギリスは経済不況で失業者の数が激増。格安旅行をするために入国してくる若者たちに対してイギリス入国管理局が厳しさを増していた。「Young Abroad Club」によると、フランスからロンドンのヒースロー空港に入ろうとして入国拒否にあったり、せいぜい1週間の滞在許可しか出なかったという例も紹介されていた。

 そこで、私はチェックの厳しいヒースロー空港をなんとか避けてイギリスに入国できないか、いろいろ調べた結果、ある興味深いルートを思いついた。それは、いったんデンマークに入国してから、北海を渡ってイギリスの東海岸にあるハーウィッチという港町からイギリス入りするというアイデアだった。ハーウィッチがどんな街なのかはわからなかったが、少なくとも、ロンドンのヒースロー空港ほど厳しくはないだろうと考えた。できるだけ長期(といっても最長で6か月だが)の入国許可を取りたい。いったん入国さえしてしまえば、あとはこちらのものだ。

 その時の私には、ただ「ウェールズに行きたい」「現地でできる限り長く滞在したい」という以上の考えはなかった。具体的にウェールズのどこに行って、どこに泊まるかの予定も一切決めていなかった。ただ日本を脱出してウェールズという未知の国に向かう、それだけの単純な頭だった。

 私が購入したパキスタン航空のチケットは、羽田を出発したあと、まず北京に到着し、そのあとラワルピンディ⇒ダマスカス⇒アテネ⇒ローマと合計5都市を経由して32時間でコペンハーゲンに着く、いわゆる南まわりルートだった。25歳にして、生まれて初めての海外渡航なので、この32時間の旅がどんなものになるかなど、まったく想像もつかなかった。ただ、海外渡航の武勇伝のひとつになっていた、ウラジオストックからシベリア鉄道を使って陸路でパリに入るよりも楽だというくらしか考えていなかった。

 私にはその頃から「ダメ元」という考えが自分の根本にあった。ダメで元々だ。もし、ウェールズに行って所持金が底をつき、渡航がむつかしくなったら、思い切ってイスラエルのキブツへ行こうと漠然と考えていた。イスラエルのキブツという共同社会に行けば、誰でも何らかの仕事があり、生活できるといわれていた。キブツ行きは、海外渡航をめざす若者たちの中でちょっとしたブームになっていた。 

 パキスタン航空の機内に乗り込んで来る乗客を見ると、8割が日本人風で、あまり国際線という感じはしなかった。あとでわかるのだが、これが次の到着地に行くたびにどんどん日本人の数が減っていくことになる。かすかな記憶だが、出発までの間、機内には、哀愁を帯びたギルバートオサリバンの“Alone Again”が流れていた。

 やがてフライトが離陸し、しばらくするとこの南まわり便の値段が安い理由のひとつがわかった気がした。エアコンが正常に作動しないのだ。暑い。これは覚悟を決めていかないとならないなと思った。

 羽田を出たあと、最初の到着地が北京だった。空港に到着しようとした機内の窓から毛沢東の巨大な肖像画がある空港ビルが目に入った。歴史によると、毛沢東はそのちょうど1年前の1976年9月に逝去し、いわゆる文化大革命も終了していたはずだが、大きな肖像画が空港ビルの上に置かれている意味は、私にはすぐにはわからなかった。

 北京空港で1時間のトランジットだ。自分が生まれて初めて踏みしめた外国の土地は北京だった。空港の売店で売られている商品が数えるほどしかないのに驚いた。質素で閑静な空港ビルの外を少し散歩していると、道路工事をしている作業員たちに出くわした。自分と同じような顔つきをしているのに言葉が通じないという初めての体験だった。そのうちに、出発の時間が迫っていることに気が付いた。ふと滑走路の方に目をやると、なんと300メートルほど先に乗客の最後の列がタラップに乗り込もうとしているではないか。私は全力で走った。おそらく自分の持てる最高のスピードで駆け抜けたのだろう。あと1分気が付くのが遅かったら、私はもしかしてそのまま北京空港に取り残され、日本へ強制送還されていたのかと思うと冷や汗が全身から流れてきた。

 北京を出たのは夕方だったが、フライトが夕陽の沈むスピードと同じなのか、いつまでたっても陽が沈まない。夕陽と追いかけっこという感じだ。地球が本当にまるいことを実体験できた。その時思ったのは、もし、地球が自転するのとフライトのスピードをまったく同じにすれば、いつまでたっても出発時間のままなのだろうかという素朴な疑問だった。

 次の目的地、パキスタンのラワルピンディにあるベナジル・ブット国際空港に到着したのは現地時間の午後9時40分。眠いと思ったら、日本時間で午前1時40分くらいか。日本を発ってから12時間になるが、急にのどが渇いたので空港の売店で値段も確かめずにコーラを買ったら1ドルもして、青ざめた。1ドル360円の時代だ。これからの旅を考えるとこの出費は痛い。

 ここで空港のソファに座って4時間のトランジットになるが、慣れないせいか周りを歩くパキスタン人が同じ顔に見えてくる。ここで思い出されたのが「Young Abroad Club」に書かれていたアドバイスだ。トランジットで寝込んでしまって盗難にあうことが少なくないという。そこで、私は寝込んでしまってもショルダーバッグを持っていかれたりしないように、バッグの紐の部分を腕にぐるぐる巻きつけて仮眠を取ることにした。

 日本を出発する前日に福岡空港に送りに来てくれた子どもたちの顔がまぶたに浮かんだ。草ヶ江ヤングラガーズでラグビーを教えていた小学6年生の子たちだ。私が担当していた学年の26人の子たちが全員、空港に来てくれたのだ。

 午前1時すぎには仮眠から目を覚まし、ショルダーバッグがしっかり自分の体に巻き付けられていることを確認してから、機内に乗り込む。次の目的地はシリアのダマスカスだ。考えてみれば、これは、かなりリスキーな渡航ルートではある。ダマスカスに到着したのは午前4時35分。オレンジ色の夜明けがきれいだった。この時間帯は意識もうろうとしていたのか、ほかには、ほとんど記憶がない。

 ダマスカスを出発すると、今度は昇ってくる太陽を追いかけながらアテネに向かう。太陽と一緒に動くというのは、地球の広さを感じられて楽しい体験だ。しかし、パキスタン航空機はいつの間にか太陽のスピードに追い越されて少しずつ夜が明けてきた。アテネ着が午前7時45分。眼下に見える地中海の青さが目にしみる。羽田を出発してからすでに24時間以上が経っている。

 アテネの次はローマへ向かう。南イタリアの平野を見下ろしながら、フライトはナポリの上空を通過。ローマに9時45分に着いた。毎回空港に到着するたびに機内から降りて空港で次の便を待たなければならない。イタリアらしいあざやかなグリーンのバスに乗って待合室へ向かう。周りを見渡したところ、さすがに日本人乗客はほとんどいなくなり、パキスタン人らしき人達と、デンマーク人らしき人達だけとなった。いよいよあと3時間で目的地のコペンハーゲンだ。がんばろう。

 午後12時40分。雨のコペンハーゲン。羽田空港の出発からすでに32時間たっていて、さすがにお尻が痛くなっていた。もう当分の間、飛行機には乗りたくないな、と思った。しかし、空港に設置された長い「動く歩道」に乗ると、北欧のセンスがひしひしと伝わってくる。「俺はいま外国にいるんだ!」と声をあげたくなった。まさかその後、2年間近くもウェールズに住むことなど、想像もしない海外渡航のスタートだった。

(次回は2月15日(月)に連載の予定です)

出発時からつけ始めた「旅日記」