1964年春、ちょうど中学へ入学するタイミングで私の家族は大分から東京へと引っ越しました。和歌山で生まれてから、松山⇒大阪・堺⇒神戸⇒大分と転居を繰り返し、これが5回目となりました。引っ越しに使った段ボール箱が全部開かないうちに次の場所に引っ越すというような感覚でした。
大分ではやっと関西弁から大分弁に慣れてきたところでした。家庭内では不思議な現象が起きていました。それは、家の中では以前住んでいた方言が話されて、いつも一つずれるということでした。つまり、大分にいた頃には家の中では関西弁、外では大分弁。東京に移転してすぐは、家の中では大分弁、外では東京弁という感じでした。
前回も書いた通り、中学に入学した年の秋に東京オリンピックが開催されました。私の通っていた世田谷区立烏山中学はちょうど甲州街道に面していたため、マラソンコースになっていて、みんなで日の丸の旗を持って応援しました。金メダルを取ったのは、裸足で完走したエチオピアのアベベ選手でした。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%99%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%AD%E3%83%A9
大分の津留小学校では駆けっこをしてもクラスの真ん中くらいだったのに、烏山中ではトップクラスになれたことは驚きました。私は友達に勧められるがまま、軟式テニス部に入りました。中3の春にはダブルスでしたが世田谷区3位に入った記憶があります。
あとで知ったのですが、ちょうどその頃、烏山中学から数キロ先の千歳中学には、あの坂本龍一氏が同じ学年でいたようなのです。彼は1952年1月17日生まれで、私が2月4日なので、誕生日もほぼ2週間くらいしか離れていません。坂本氏は千歳中でバスケットボール部に入部し、私は烏山中で軟式テニス部へ。つまりは同じ時期に私たちは、すごく近いところにいたということになります。
当時はグループサウンズやフォークソングが流行っていて、マイク真木の『バラが咲いた』も思い出の歌のひとつです。中2の時に、近所の大学生に勧められてお茶の水に行き、6,000円でクラシックギターを買ってきて、自分で始めました。一時はギタリストになりたいという夢を持っていたほどです。
烏山中学のある当たりには、寺町通りを中心にみどりにつつまれた26もの寺院が軒を連ねる烏山寺町。小京都と呼ばれるように、ここが東京かと思うような、白壁の連なりが落ち着いた雰囲気をかもしだしています。それぞれの寺院は長い歴史がありますが、寺町のおいたちは、関東大震災(1923年・大正12年)の後、浅草、築地、本所、荒川など都心部から移転してきた寺院が集まったのが始まりです。
クラスメイトのひとりにお寺の住職さんの息子、司馬君がいたのですが、彼がクラシックギターにはまっており、いろいろな曲を教えてもらいました。
家族の転居はその後も続きそうだったので、相談した結果、進学先として、新設されて3年目の寮のある都立高校、秋川高校を選ぶことにしました。
こうして、1967年4月に私は都立秋川高校の3期生として同校に入学しました。