• ラグビーを通じた国際交流をメインに自分の活動を報告しています

My Story ①

(自分の思い出を少しずつ文章にまとめてみることにしました。不定期ですが、時間があるときに書いてみたいと思います)

私は1952年2月4日に和歌山県の下津町(現在の海南市)で生まれました。

自分の年代をわかりやすく説明すると、1964年、中学1年生の時に東京オリンピックが開催された学年ということになります。私たち家族はその年の3月末に大分から東京に引っ越してきたばかりで、10月10日の開会式の日にジェット機が青空に描いた五輪の輪を、当時、私たち家族が住んでいた世田谷区の烏山の家から見えたことをよく覚えています。

その頃にはいろいろなところに空き地があり、土管が置かれたりしていました。昭和時代の典型的な光景。私たちは近所の子供たちと休日によく空き地で三角ベースをやって遊んだものでした。

私が生まれた1952年という年はまだ「戦後」の真っ最中でした。前年の1951年9月にはサンフランシスコ平和条約が結ばれたのですが、この条約により、連合国は日本国の主権を承認し、国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結したということになります。

つまり、私たちの年代は、戦後6年、やっと戦争状態が終結した年に生まれた世代であり、自分たちには自覚はないが、まだまだ戦争をひきずっていた世代ともいえます。

父親、徳増宇太郎は、静岡県浜松市の出身だったのですが、あのサイパン島に派遣され、現地で捕虜になり、奇跡的に生還。米軍の船でサイパン島からハワイの収容所に連れて行かれ、サンフランシスコに送還された時に、夕陽に輝くゴールデンブリッジを見て「ああ、日本はこんな大きな国と戦っていたのか。これでは到底戦争に勝てるはずがない」と思ったという話を聞いたことがあります。

アメリカでの捕虜生活を経て、日本に戻り、実家の浜松に姿を現した時には、家族が「幽霊じゃないか」と驚いたそうです。実家近くには、自分のお墓まであったそうです。当時は「サイパン島は玉砕」と報じられていたので、誰も生きて帰ってくることを想像していなかったのです。

その後、父親は同じく浜松市の出身だった母・尚子(たかこ)と結婚して、丸善石油に勤務。新しく製油所ができるところに転勤を繰り返す生活となりました。

私は当時、丸善石油の製油所があった和歌山県の下津で生まれ、3歳のころには四国の松山へ。その頃の記憶はもうほとんどないのですが、ある日、電気冷蔵庫が電気屋さんから届くということで、家族全員で朝からずっとトラックが着くのを心待ちにしていたことを覚えています。

その頃は、冷蔵後・洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」と呼ばれ、各家庭の夢でした。冷蔵庫ができる前は、氷屋が、トラックで氷を運んで各家庭に切り売りをしていました。その氷屋のこともうっすら覚えています。風呂はまだ薪を焚いて入っていました。

小学校入学前に今度は大阪市の浜寺に引っ越すことになり、そこで「聖書幼稚園」という幼稚園に入園しました。インターネットで検索したところ、聖書幼稚園は1950年に創設され、現在も健在です。https://seisyo-youchien.com/intro/

なぜ浜寺でキリスト教系の幼稚園に入園したのか、今ではわかりませんが、祖母・鈴子が敬虔なクリスチャンであったことも多少影響しているのかもしれません。

その後、堺市の浜寺小学校に入学。小学2年生の時には神戸市に引っ越し、阪神電車の深江駅の近くの神戸市立本庄小学校へ転向しました。担任の先生が「今日は新しいお友達を紹介します。徳増浩司くんです」と言って着席。そのすぐ後が、国語の時間だったのですが、先生が「ここのところ読める人だれかいますか」と聞いたら、私が真っ先に「はい!」と手を挙げて、間違えながらも読んだことを覚えています。その後、私の人生のキーワードになる“ダメ元”の気持ちは、もしかしたらこのころからあったのかもしれません。

自宅は丸善石油の社宅でアパートの3階でした。その後、同校から分校化した新設の東灘小学校へ通うことになります。

あの頃の男の子たちの夢は、十中八九、プロ野球選手になることでした。神戸に住んでいたので、阪神タイガースのファンとならざるを得ません。たまたま、家の近くに村山実投手の自宅があると聞いて、(今では考え難いことなのですが)友達と二人でいきなり自宅を訪ねた記憶があります。

チャイムを押すとなんと村山選手ご本人が出てきたので、「ぼくたちファンです」と告げると、家の中に入れてくれて、トロフィーや盾を見せてくれました。いきなり小学生ふたりの”珍客”を歓待してくれた村山選手。なつかしい思い出のひとつです。

その頃は、軟式ボールを手のひらで打つ野球のような「ポンツ」というゲームで遊んでいました。https://labola.jp/blog/user/AY0K71cHje-Ra9RaOhug/6472846

神戸は海と山に囲まれた素敵な街でした。やっと神戸に住み慣れたと思ったのもつかの間、5年生になるときには、今度は大分県へ引っ越すことになりました。

神戸から大分への引っ越しは、当時はメリケン波止場から夜行の船に乗ってでした。ジャジャーンというドラの音が鳴り響き、「蛍の光」が流れる中を、送ってくれる人に紙テープを投げての出航。すべてがドラマチックでした。

翌朝目が覚めると、そこは別府の海でした。別府タワーが朝霧の中に見えました。

大分の津留小では、関西弁をみんなに笑われました。関西弁のアクセントでは、「せんせい」というとき、最初の「せ」にアクセントが行くのですが、これが彼らにはおかしかったらしいのです。しかし、私にとってみれば、大分の子たちが話す日本語もわかりづらかったです。最初に聞かれたのが「おまえ、野球しきる?」。しきる=仕切る? 何だろうと思いました。そのうち、話を聞いていることが「野球、できる?」という意味だとわかりました。

私がその後、語学が得意になったのは、もしかしたらこのように子どもの頃にいろいろな方言に慣れたことと関係があるかもしれません。

大分ではよく自宅近くの裏川に2歳下の弟・雄司と釣りに行きました。言葉のせいもあったのかもしれないのですが、神戸ではあんなにたくさん友達ができたのに、大分では一人の時間が多かったです。

そして、小6になっていよいよ卒業式が来週・・・・という段になって、今度は東京へ引っ越すことなる。そんなわけで、私は小学校の卒業式には出ないまま卒業となってしまったのです。