(この連載は2021年3月に世田谷区立千歳中学3年生に向けて行った講演に加筆したものです)
前回は「その時々に熱中することがあるのが大切」というお話をしましたが、人生にはいろいろ失敗もあります。今日はその時々の「失敗」も、最終的には必ずしも失敗にならないというお話です。
私は高校時代、家庭が経済的に厳しかったため、進学するなら国立大学と決めていました。国立の第一希望は大阪外語大のフランス語学科でした。その頃からなんとなく「外国語を使った仕事」につきたいと思っていました。これも、別にフランス語がやりたかったからというわけではなく、英米語科が一番難関だったので、フランス語科ならもう少し入りやすいかなと自分で妥協した結果でした。
当時、私は都立秋川高校という寮のある学校に通っていましたが、冬休みは帰省しなければなりませんでした。実家は福岡にあり、母が一人でおもちゃ屋さんをやっていて、とても勉強できる環境ではなかったので、冬休みは浜松にある親戚の家においてもらって受験勉強をすることにしました。するとその時に叔父さんから「受験料は私が出してあげるから、どこかひとつでも試しに私立大学を受験してごらん。」と言われて、当時、受験料が安いこともあり受験したのがICU(国際基督教大学)でした。結果的には本命の大阪外語大は数学ができなくて、あえなく不合格。ところが、叔父さんに言われて試しに受けたICUの方は合格になったので、とりあえずはしばらく入学して通ってみることになりました。続かなければ翌年もう一度国立大学を受験するつもりでした。
入学はしたものの、経済的な苦しさは相変わらずで、育英会の奨学金をもらいながら、学費と生活費を全部自分で稼ぐため、家庭教師、工事現場での運搬作業、発掘作業など、さまざまなアルバイトに明け暮れました。しかし、この時のアルバイト体験は、のちに海外渡航した時に、とても役に立ちました。「どんな状態になっても、がんばればなんとかなる」みたいな自信ですね。
ICUでは寮に入ったのですが、ここには寮対抗のラグビー大会がありました。ラグビーは高校の体育の授業で少しやったことはあったのですが、私はすっかりラグビーの面白さにはまってしまいました。ボールを持ったら前に行く、あとは自由にプレーできるとというシンプルなスタイルがその時の自分にはぴったり合っていたのです。
寮の先輩に誘われて、私はさっそくラグビー部に入ろうと思って放課後のグラウンドに行ったのですが、学園紛争の直後ということもあり、なんと部員が2人だけでランニングパスをしている状態でした。たった2人のラグビー部・・・。これじゃあ、やっていけるのかなあと正直思いました。
私はラグビー以外に音楽も興味があったので、大学のオーケストラでコントラバスをやろうか迷っていました。たまたま寮の同室にアメリカ人のアンディーという留学生がいたので、たどたどしい英語で聞きました。「いま、ラグビーやるか音楽やるか迷っているんだけど、どっちがいいと思う?」。すると彼は「音楽は年を取ってからいくらでもできるけど、ラグビーは今しかできないんじゃない」。
もちろん、ラグビーが楽しかったことが一番の理由でしたが、あの時にアンディーに出会ってなければ、それよりも、もし本命の大阪外語大学に合格してICUに行ってなかったら、私はラグビーをやっていなかったかもしれません。つまり、その時々の「失敗」も、最終的には必ずしも失敗にならない、むしろ「失敗」が結果的には「チャンス」になることがあるのです。
また、この時のアンディーの言葉は私にとって新しい体験となりました。それまで、英語は受験勉強の一部くらいにしか思っていたのですが、英語ができると、海外の人とコミュニケーションできる、もっと言えば、この時のアンディーの言葉のように「自分の人生も変わるんだな」と思いました。
私は海外留学にも興味があって、当時、ICU にはUCLA(カリフォルニア大学 ロサンゼルス校)への留学制度があったので、学内試験を受けました。なんとか合格したものの、自己資金の10万円がどうしても捻出できなくて断念。悔しかったです。でもそれ以来「将来、自分でお金を稼げるようになったら絶対に海外に行ってみたい」とずっと思っていました。人生にはこういう風に思ったように行かないことが少なからずあるものですが。でもそれはかえってハングリー精神となって、あとでその分がんばれるパワーになってくるものなんです。できなかったという思いが強いほど、あとで大切な時にがんばれるものです。
そんな私が初めて海外に行くことができたのは25歳になった時でした。こういう思いを持って海外へ行ったので、現地ではたくさんのことを吸収することができました。その時のお話は次回にさせていただきますね。